かみのやま温泉街の中心地である「かみのやま温泉駅」の隣駅は斎藤茂吉のふるさと「茂吉記念館前駅」。
〝斎藤茂吉記念館〟では歌人・精神科医である斎藤茂吉の歴史や作品を見ることができます。
- 斎藤茂吉とともに短歌や文学の世界を学べる!
- 上山市金瓶地区の所々に存在する斎藤茂吉の跡地巡りができる。
- みゆき公園は桜の名所としても有名の風情豊かな公園。
かみのやま温泉駅のすぐ隣の駅は斎藤茂吉のふるさとでもあったんだにゃ。
目次
斎藤茂吉とは?

斎藤茂吉とは、上山市に生まれた歌人。また東大医学部卒の精神科医でもあった。短歌をはじめとして医学、歌論・評論・随筆でも多くの業績を残しています。
茂吉の詠む歌は、ふるさとや母に対する愛情を感じる歌が多かった。また、人生の折々で歌を詠み続けていたため、短歌を知るごとに茂吉の生涯に深く入り込むことができる。
斎藤茂吉の代表歌
- 最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片
- 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ
- おほつぴらに軍服を着て侵入し来るものを何と思はねばならぬ
上山市では小学校から中学校あたりまで短歌や俳句に触れる機会も多いです。そして短歌コンクールなどもありました。かみのやま温泉駅のすぐ隣駅にある茂吉記念館は目にしたり通りがかることも多く、地元の印象とも繋がっています。お祭りなどで飾られるイラストに短歌が添えられていることも多く、今でも斎藤茂吉の文学への愛が息づいているように感じます。
幼少期〜中学入学
斎藤茂吉は、1882年(明15)5月14日山形県南村山郡金瓶村、現在の上山市金瓶で三男として誕生。農家の家に生まれ、地元の自然に親しみながら育った茂吉は、住職やまわりの影響を受け、宗教心や書画などへの関心を芽生えさせました。
幼少期から、考えを深めたり文学・芸術の世界に興味があったことが伺えます。その後医学を学び、斎藤家の養子となって後を継ぐために開成尋常中学校に編入。
高校入学〜大学卒業(結婚)
中学校を卒業したのち上京した茂吉は、旧制第一高校(東京大学の前身)へと進学。このころは文学に親しんでいた。中でも正岡子規の「竹の里歌」に強く興味を惹かれた茂吉は、作歌に憧れを抱きはじめます。
1906年、子規の流れである伊藤左千夫の門下で、本格的に短歌の道へと進み始めました第一歌集の『赤光(しゃっこう)』は大きな反響を呼んだ。
1905年には斎藤家の婿養子として入籍し、大学3年生の頃(当時31歳)に斎藤紀一の二女輝子と結婚します。
大学卒業〜精神科医
1910年に東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)医学科卒業。同大学の助手を務めながら、精神病学も学び続けていた。長崎やオーストラリアなどの大学を経て1924年に東京帝国大学医科大学より医学博士の学位を授かりました。
赤光に次いで、第二歌集の『あらたま』も出版した。1926年には『アララギ』の編集発行人にもなる。歌人と精神科医、二つの分野で突出した才能を見せていた茂吉。勉強熱心で、常に学び続ける姿勢を持っていた。
院長になり激動を経験
1927年、茂吉は再建した帝国脳病院の院長となっていた。しかしその後父が死去し、戦争が激しくなっていく中、かけがえのない歌友との死別も経験。妻のスキャンダルも重なりメンタルはボロボロの状態に。
そんな最中すがるように行った柿本人麿の研究。これらが全5冊の出版につながり見事、帝国学士院賞を受賞した。その後も激しさを増す戦争の中で多くの戦争詠などの作品を残した。
ふるさとに疎開に終戦〜人生の幕を閉じる
1945年3月に起きた東京大空襲。その翌月に茂吉はふるさとの金瓶に疎開し終戦を迎えました。大病を患いながらも、ふるさとの蔵王や最上川の自然から感じる真心に包まれながら、数多くの秀歌を詠み続けます。
1951年、69歳の頃には文化勲章を受章。翌年に「斎藤茂吉全集」全56巻も発行し、やっとの思いで表舞台へ。しかし、このころから痴呆が進み、創作面での活躍は減った。
1953年2月25日、70歳9ヶ月で斎藤茂吉は心臓ぜんそくに見舞われ、生涯の幕を下ろしました。築地本願寺で行われた葬儀の戒名は、自ら考えた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」と記され、青山霊園を墓地として眠っている。
歌集は全17冊を刊行。1万8千首以上の作歌を生み出し、歌論・評論・随筆に関しても多くの業績を残していた茂吉。あくまでも精神科医を本業とし、短歌について「歌は業余のすさび」と称していたのだが、息子が「心の九割は歌と文学にあったと思う」というほど短歌や文学を愛して止まなかった茂吉。
文化勲章のほか1937年に帝国芸術員会員、1940年に帝国学士院賞、1950年には第1回読売文学賞の各賞が贈られています。現在もなお、ふるさと上山市では斎藤茂吉の歴史が伝えられ、茂吉の愛した「短歌」も伝統として受け継がれています。
斎藤茂吉の性格
- うなぎが大好きでかなりの食いしん坊。食の好みは激しかったのだそう。戦時中には事前に缶詰を蓄えるなど、先見の明を持ち合わせていた。
- 非常に怒りっぽく癇癪を持っていたが、家族の前以外では隠していた。風邪で自宅で寝込んでいた際、患者に切れたことがあるが、のちに反省していた。
- とても根に持つタイプで粘着気質だった。カップルがキスした際、あまりにも長かったことから「長いなあ、実に長いなあ」と呟き物陰で1時間も見続けていたことも。
- 物をとても大切に扱っていた。買って帰る絵葉書を選んでいる際、妻の乗る電車が発車してしまったが、絵葉書の支払いを済ませてからダッシュで追いかけ、器用に飛び乗ったという。
斎藤茂吉については、地元でも習いました。先を見通す力があり、意志が強い印象が強いですね。努力家で家族など以外の前では多少道化師の印象もあり、太宰治に通じるイメージも持っています。
文学や歌を詠む繊細さを持っているだけに、こだわりや物を大切に扱う気持ちも持っているようですね。息子さんの「茂吉の心9割は文学にあったと思う」の言葉の通り、斎藤茂吉の短歌の作品を読んでいても自然の情景を多く描く繊細さやふるさとや母への愛が伝わる多くの素敵な作品を残していますね。
茂吉と、妻の斎藤輝子
- 1896年14歳の頃、茂吉は小学校を卒業し、親戚の医師斎藤紀一(輝子の父)の勧めで医者を志す。上京し斎藤家の世話になることになった。
- 1914年当時31歳の茂吉は13歳年下の斎藤紀一の娘、齋藤輝子(19歳)と結婚。本格的に斎藤家の婿養子になった。結婚2年後には長男の茂太が誕生。
- 養父となった紀一は茂吉の才能を早くから見出しており、娘の輝子に「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と教えていた。
- 茂吉夫婦は価値観や性格の不一致で、度々嫌がらせや文句が絶えなく、妻の育児放棄や夫の家庭内暴力もあったという。
- 欧州留学中の茂吉の元に輝子を呼び、ヨーロッパ各地を旅行した。帰国後に長女百子、次女昌子が誕生。その後次男宗吉も誕生。
- 養父紀一(茂吉の養父、輝子の実父)がこの世を去った。これ以降の病院経営関連は茂吉が請け負うことになる。
- その後妻の輝子が「ダンスホール事件」に関わったことで不倫や異性関係のだらしなさが露呈し、別居となった。父の死の悲しみも相まったのだろうか。事件について茂吉は「精神的負傷」と記す。
- 戦後、同居を再開した妻の輝子は茂吉を献身的に看病しました。のちに輝子は80歳を超えても世界中を旅して周り、エベレスト登山まで挑む非常に活発な女性でした。
斎藤茂吉記念館はみゆき公園の中
斎藤茂吉記念館は、みゆき公園の敷地内にある。みゆき公園は上山市の桜の名所としても有名で、春は満開の桜、夏は青々とした森林浴、秋は鮮やかな紅葉、冬は一面の雪景色。
茂吉はここで蔵王連邦を一望しながら、自然のまごころに包まれ、歌を綴っていたのだろうか。歌人である茂吉に想いを馳せながらこの場所を歩くと、まるで様々な故人の想いが伝わってくるようだ。
ゆっくりお散歩したり、読書したり、一休みするにもうってつけの公園です。
関連記事:山形県上山市の公園TOP5
春になれば桜の名所としても有名な、自然に囲まれた素敵な公園です。斎藤茂吉もよく足を運び、癒されていたと言います。桜の絨毯の上をゆっくり歩き、自然を満喫できます。秋の紅葉や雪景色の蔵王連峰もまた綺麗です。
平屋のお寺のような『斎藤茂吉記念館』の他にも、庭園や茂吉の像があります。加えて「箱根山荘の勉強部屋」と呼んでいた神奈川県箱根町強羅にあった斎藤家別荘の離れもこの地に移設され、展示されています。この周辺だけでも多くの見所がありますよ!
斎藤茂吉の生家
斎藤茂吉が生まれた「守屋家」が残されています。また、勉学に勤しんでいた「金瓶学校」や幼少期に宗教心への関心が芽生えたきっかけとなる菩提寺でもある「宝泉寺」なども見ることができます。
上山市金瓶市は、リナワールドのすぐ近くに位置しています。自然も多く、大通りも多く通っています。斎藤茂吉記念館の周辺に「勉強部屋」や「宝泉寺」などが点在していて散歩がてら斎藤茂吉についての跡地を巡ることができます。歩きながらみゆき公園の桜や蔵王連峰の山々を見ているだけでも気分がリラックスしますよ。茂吉もかつて足を運んでいた土地です。
斎藤茂吉記念館まとめ
いかがでしょうか。斎藤茂吉のふるさと、上山市金瓶。ここはかみのやま温泉のすぐ近くで、気軽に立ち寄ることができます。
中には斎藤茂吉に関する資料がびっしり詰まっていて、上山市の歴史や歌人、短歌の歴史についても詳しく学べます。
- 斎藤茂吉は文学者(短歌中心)とともに精神医学者だった!
- みゆき公園には「斎藤茂吉記念館」があり、家や勉強部屋もそのまま残されている。
名称 | 斎藤茂吉記念館 |
---|---|
アクセス | 茂吉記念館前駅すぐ前 |
住所 | 〒999-3101 山形県上山市北町字弁天1421 |
営業時間 | 9:00~17:00/水曜日定休 |
駐車場 | あり(無料) |